画相を観る

『画相を観ること』

 

ベテランの大先生はいとも簡単に画相を観て判断をしているが、 皆なはベテランの大先生と同じではないということを先づ認識するべきである。      気色を観るにも、骨格を観るにも

 

画相を観るにも、 其れを観る(判断する)に先づ準備というものがあるのです   其の準備が出来ていない状態でやっても判断出来るわけがないというのが私の考えです。 

 

武術と同じで、 黒帯五段の者がやっていることを白帯のものが同じ事をやろうとしたところで出来る訳が無いのである    故に、段階ごと(実力ごと)に一段づつ階段を登るように

 

力を付けていくやり方が良いのです    というか、そうでないと出来るようになりません     此処では画相を観て判断する為の準備のひとつを紹介するとします。 

 

画相と言えば亀田先生の透視観相鑑は外せないので少し紹介したい    以下、 亀田壱弘先生・復刻量亀流透視観相鑑・『画相で透視する方法』 より 

 

「画相を見るには」   画相を見んと志す者は、 まず大宇宙に自在に遊ぶの心境を、 修得する必要がある。 小我を捨て、 欲を離れ、 そこに自己もなければ、 他もまた在るを識らず

 

、 環境をも忘れ得るのとき、 すなわち、 偉大なる我が内在宇宙心を発現して、 大自然の太霊に相通じ、 画相の自在境に遊行して、 自由に看取、 判定し得るものである。 ゆえに、

 

つねに完全なる善の心意を養い、 いやしくも悪と意識することを避け、 意に思うことはもちろん、 絶対に悪の行為を退けて、 強固なる自信を内在するを第一の条件とする。  その次に

 

、精神統一の練磨であるが、 これは静坐、 坐禅、 あるいは神仏等をその対象として信仰するの修行等、 その方法も数あるが、 最も近代人に適し、 そして一番簡易なる途は、 まず、 

 

無念放心の状態より入り、 次に無念無想の境地に進むのが、 容易なる方法である。 何人も偉大なる自然美に接するのとき、 必ずそこに、 小我の存在を忘れ得るものである。 これ、 

 

すなわち無心の状態である。  云々・・・ と先へ続くのですが、   此処で重要な点(全て重要ですが)を幾つか挙げますと『精神統一の練磨』、 『少我の存在を忘れ得る無心の状

 

態』、 である。南北先生も要は同じようなことを云っておられると自分は考えており、 集中力だと理解します。   鑑定が始まれば、 雑音や周りの状況など気にならぬ集中力です  雑

 

音や周りのことなど気にもならないし、 自分自身も無心で白紙で居ればいいのです。   小我無く無心で集中力だけ残してジーッと観て居れば画相も見えるし、 天から連絡も来るのです。

 

先づこういうことを大事にして此れに取り組むことが大事なんだと考えています  これをバカにして全く相手にしていなかったり、 何も考えず準備もせずただやって見えないと言ってる状

 

態や、 見える人は才能や能力が有るとか、 見えない自分は才能・能力ないと言って諦めるなどは、 取り組み方に間違いは無かったかをもう一度見直す必要があるということです。 

 

見える者は見えるし、 見えない者は見えないんだとバッサリと簡単に言うのは画相が見えるのはどういうことか、 訓練法は、 或はどうしたら見えるようになるか真剣に向き合ったことの

 

無い者である。  画相や気血色も含めて、人相術も先達の先生方が残してくれた資料を基に実践鑑定して一歩でも半歩でも研究を進めたいものですね  画相も気色も血色も気線も神気判断も

 

どうやったら皆な見えるようになるか考え、編み出すことが重要です  ただ、単に『見えないヤツは見えないし見えるヤツは見えるんだ』 ではねえ